出不精な、私である。
ここ数年、社会保険労務士の住田君の手伝いをして何とか糊口をしのいでいるが、1960年代末生まれで40歳を過ぎた年になっても、金もなければ名もない。

-四十五十にして聞こゆることなきは、斯(こ)れ亦(また)畏るるに足らざるのみ。
(論語、子罕篇)

この孔子の言葉が、ひそかにチクリと心に痛い。
ものぐさで出不精だから金も名も無い私であるが、時々思い出したように旅行をしてきた。心の中の動きが澱んでしまった、と感じたときが、旅行を試みるときだと思っている。
そういうわけで、ここ数年は東アジア諸国を周遊した。香港、台湾、韓国(二回)と足を運んでみた。
今年(2012年)の春、私はまたも気鬱になってしまい、こんな時には心と体に無理にでも揺さぶりを掛けるべきだ、と感じた。旅行のやり時だ、と思い立った。
どこに行こうか、と思案したとき、次は日本を選ぼうと思った。
海外ではいまポーランドに興味があるのだが、ここに赴くのは少々大変だ。日本から文化的にうんと遠い国なので、下調べをするために十分な気構えが要る。私は、旅行先の土地の文化に、自分の力で出来る範囲の限り、共感したい。ポーランドに行くためには、私として十分な心中の高揚を持って、持てる知識欲を事前に総動員させてから赴きたい。ところが、今年の春時点の私には、そこまでの高揚がなかった。しかたがない、今年はあきらめよう。

そこで、日本の東北地方を選んだ。
去年にあった大地震のことが、もちろん頭にあった。同時代に生きていた者の責務として、この時期に必ず自分の目と足で訪れて何らかの印象を持っておかなければいけない、と思った。
そして、東北地方は、私がまだ旅行をしたことがない土地であった。それも理由の一つである。
私は、関西生まれの関西育ちである。大学だけ、東京のど真ん中の大学にいた。
今は京都市内に住んでいるが、京都の市中から見て聳(そび)え立つ比叡山に、時々登ることがある。
山頂のケーブルカー乗り場から見下ろせば、冬の晴れた日などには東国の景色を見ることができる。
すぐ下には、当たり前ながら琵琶湖。
左には、比良山地の雪山が美しい。
向こうの彼方に、秀麗な姿の山が見える。
手前に一つ。その向こうにもう一つ。
展望地点に据え付けられたガイド図を調べれば、手前の山が有名な伊吹山。
その向こうの山は、木曾の御嶽山である。
木曾の御嶽山は、京都から見ることができる、最果ての火山であった。
私は、比叡山から見下ろした風景が、関西人の描く日本地図と、おおむね重なっているという意見を持っている。
つまり、木曾の御嶽山ぐらいより西側は、関西人にとってなんとなく「こちら側」という大くくりな親近感を持っているようだ。具体的な県名で言うならば、愛知県、岐阜県、それから富山県あたりよりこちら側が、関西人の主観的な「こちら側」であるのではないだろうか。
私などの関西人にとって、「こちら側」は何となくの気分として連続した世界である、というイメージを、昔から持っている。逆にその向こうの世界、「あちら側」は東日本であり、比叡山から見下ろしたら御嶽山の向こうがかすんでよく見えないように、同じ日本人だけど関西から見てイメージが分かりづらい世界、気候が違う、言葉が違う、何よりも関西と歴史的に関わりが薄くて東京と直接に繋がっている、そんな異世界の印象がある。これは決して私一人の主観ではなくて、平均的な関西人を取り上げたならば大同小異で持っているイメージなのではないか、と私は思うのである。「こちら側」と「あちら側」は東日本と西日本、と言い換えることができて、たとえば野球などのスポーツで東西対抗、と言えばおおむね私が言った境界線あたりで分かれると思う。

私は東京のど真ん中の大学に長くいたから、東京とその近隣地帯についてはよく知っている。東海道新幹線から見える富士山の壮麗さ、夏の伊豆半島の海のギリシャ的というべき明るさ、北関東の平野の茫漠とした広がりなど、私が好きな風景を数多く挙げることができる。
そして、東北地方はこれまでまともに行ったことがなかった。
一度だけ、大学時代のサークルの合宿で、会津磐梯山の麓に行ったっきりである。関西地方では決して見ることができない火山の雄大な風景であったことぐらいしか、よく覚えていない。もっとも、故井上ひさし氏によれば会津地方は東北の範疇に入らないということであるが。
そんな私にとってのイメージの空白地帯に、私は今年の5月8日から12日までの一週間足らず、足を運んでみた。
行き先は、仙台周辺と津軽地方を選んだ。東北は広大で、この限られた時間は二か所ぐらいしか行くことができない。それで、日本海側の出羽地方は諦めた。日本の100万都市の中で、私が最後に行き残していた仙台が一つ。それからもう一つは、岩木山を見ることができたならば嬉しいな、と思って選んだ。関西には、火山がない。そのためもあって、私は火山のある風景に強い憧れがある。東北地方には、いくつかの火山の名山がある。その中で、私は太宰治の『津軽』に描かれたあの山まで行くことを旅の最後にしようか、と思った。

私は、この旅行で司馬遼太郎と太宰治の両大家の仕事を、常に参照していた。
旅行の前に読み、旅行の最中は疲れと酒酔いであまり読み返せなかったが、旅行が終わった今はまた読んでいる。
もし、こんな40代で職業不定の馬鹿者の文章を読んでくれる奇特な方がおられるならば、ついでに以下の著作はできれば併せて読んでくれると、嬉しいです。

司馬遼太郎『街道をゆく26 嵯峨散歩、仙台・石巻』(朝日文庫)
同『街道をゆく41 北のまほろば』(同)
太宰治『津軽』(新潮文庫)

いずれも、私は現代日本人にとって、最も読みやすい日本語の文章の中に挙げてよいと思う。
司馬氏の文章は、新聞記者の的確さがある。
太宰氏の文章は、文章でしゃべくりをするとでも形容したいような、読む者を快適に引き込ませるテンポがある。
私は、このささやかな旅行記の中で、この両者の作品に言及すると思う。
ただし、仙台とか津軽とかの歴史で両者がすでに書いている内容については、できるだけ繰り返して書かないことにしたい。書くならば、できれば書かれていないことを付け加えたい。両大家の作品に対してそんなことができるかどうかは、さておいて-

(小田 光男)