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瑞厳寺(ずいがんじ)は、すぐに行くことができる場所にある。

松島の サヨー瑞厳寺ほどの、、、

有名な「大漁唄い込み」の冒頭にこの寺が歌われているので、どんな寺か知らなくても全国的に知名度が高い。ちょっと古い話になるが、この歌は私のような昭和50年代に生きていた人間にとっては、「伊東のハトヤ」のテーマソングとして知れ渡っている。私は関西圏にいたのであるが、どういうわけかこの伊豆半島のホテルの宣伝が、盛んに流されていた。私は両親にこの歌の冒頭を教えてもらったが、その教わった歌詞は「サヨーずい、がんじん」であった。鑑真和尚(がんじんおしょう)の名前に、引きずられたのであろうか。

この「大漁唄い込み」は石巻港のことも歌われていて、最近は宮城県の漁業の復興ソングとして再発見されている。じつに威勢のよい歌で、これを歌えば復興でもできてしまいそうな気分にさせる力がある、、、かもしれない。ともかく有名なテーマソングがある郷里は、じつによい。理屈を超えて郷里に愛着を持たせる力が、歌にはある。

この瑞厳寺の創建は古いが、現在の伽藍は桃山時代の様式であり、伊達政宗の時代に整備されたものである。

ここでも、伊達政宗である。

仙台の街といい、仙台平野の米作といい、この松島の瑞厳寺といい、現在の宮城県は伊達政宗が作ったといってもよいだろう。

こういう国の基本的なデザインを最初に作った政治家を、古代の中国では「聖人(せいじん)」と言った。

聖とは作者の称なり。(荻生徂徠、『弁道』より)

江戸時代の儒学研究家である荻生徂徠(おぎゅうそらい)は、孟子以降の儒学者が「聖人」という名称を道徳が優れた人、として倫理的に捉えた視点を、180度転換させようとした。徂徠は、「聖」の意味をより古い時代に遡って捉えた結果、「聖」の本来の意味は「作者」の称であったはずだ、と定義した。つまり、古代中国の大政治家である堯舜や文王・周公などが「聖人」と呼ばれている所以(ゆえん)は、彼らが道徳的に優れていたからといういわば個人的な小さな美点にあるのではなくて、後世の者が規範として従うことができる国家の制度や文化(徂徠はこれを「礼・楽・刑・政」と呼んだ)を見事に作って普及させた、いわばよき国家システムの作者としての業績にあるのだと喝破した。徂徠はこの視点をもって、儒学の目標を個人の道徳追求から解放して、「民を安んずる」ための政治経済、そして文化といった制度を考察する道に開いたのである。(荻生徂徠の思想的特異性についての論考として私が代表的著作を挙げるとすれば、子安宣邦先生の『「事件」としての徂徠学』(ちくま文庫、二〇〇〇年)にまず指を折りたい。)

 どうも中国思想には、最も偉大な業績とは、自分の行った仕事が褒められるわけでもなくて、むしろその仕事が空気のように肌に貼り付いて離すことができないことを上の上と見る考え方が、あるようだ。

帝力、なんぞ我にあらんや。(十八史略) 

 中国では、はるか昔の時代に中国は黄金時代であった、と常に昔を追慕する。いにしえの時代の帝王である堯(ぎょう)は、最もよく中国を治めた名君として、後世の儒学者たちから聖人として慕われた。彼と次の代の帝王である舜(しゅん)とを合わせて「堯舜」と言えば、中国史上最上の治世のことを指す。

『十八史略』に、このようなエピソードがある。

堯が天下を治めて、五十年が経った。堯は、天下が果たして治まっているのか治まっていないのか、億兆の民が己を帝として戴くことを望むか否か、分からなかった。左右の近臣に問うても、答えられない。外朝(がいちょう)の下級官吏に問うても、答えられない。在野の者に問うても、答えられなかった。

そこで堯は微服(びふく、身分を隠して卑しい服装をすること)して、康衢(くこう)の土地に外遊した。童子たちの童謡が聞こえた。「我ら人民の暮らしを立たせているのは、これ全て堯の至極の統治である。知らず識らずと、堯の掟に従っている」と。また老人がいて、口に食物をほおばり腹を鼓(つづみ)のように打ち、壌(じょう、大地)を撃って歌っていた。「日が出れば耕し、日が入れば休む。井戸を掘って飲み、田を耕して歌う。すべてこの通りである。帝の力なんぞ、なんで私に及んでいるだろうか?」と。

有名な、「鼓腹撃壌(こふくげきじょう)」の説話である。老人の歌の最後のフレーズが、上の「帝力、なんぞ我にあらんや」である。堯の治世が偉大であるのは、帝の統治が人民にとって気づかれもされないレベルで、空気のように行き渡っていることであった。文明世界の生活を作るのは目立つ英雄たちなどよりもむしろ、水や空気のように生活を成り立たせているシステムの作者の功績なのだ、という洞察は、非常に知恵深い。古代中国における堯舜などの「聖人」の姿は、ほとんど立法・行政組織・道徳制度・文学や音楽などの文化といった無人格の社会インフラに近い。

 日本の江戸時代もまた、この意味での「聖人」たちが創始した時代であった。

織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康が彼らの治世で切り開いた政治経済のシステムの意義は、彼らの武勇伝よりもはるかに後世の人々にとって重要であった。

伊達政宗は、信長・秀吉・家康が全国レベルで行ったインフラ作りを、彼の領地として与えられた仙台藩で、ほとんど一人の治世で行った。彼の治世の前と後とで現在の宮城県が断絶するほどに一変したことを考えれば、「聖人」としての意義はより大きいと言えるかもしれない。

 戦後日本も、一つの新しい制度の上に建てられた、一時代であることには間違いがない。現在の我々日本人は、戦後時代の制度の上に生きており、いまだ革命は起こっていない。

戦後の時代を作った「聖人」は、誰であろうか。

私は、あえて象徴的な政治家として、吉田茂と田中角栄を挙げたい。

現代の日本という国の法と外交は、吉田茂の時代に方針が打ち立てられた。その方針は、いまだ現代の日本社会を強固に縛っていて、ここから抜け出すことは頭の中で想像することはできても、実際に行うことは生爪をはがされるような痛みを伴うに違いない。「聖人」の業績が古代中国の意味で言う「聖人」のものであるとすれば、その法を変えることは、後世に生きる者たちにとって空気や水を入れ替えることと同じく、ひりつくように痛いはずである。それをあえて行い、古い時代の命脈を断ち切り、古い時代の良いものも悪いものも合わせて押し流してしまうことが、すなわち革命であると言えはしないだろうか。

吉田茂が後の時代の法と外交を作ったとするならば、田中角栄は後の時代の経済のあり方を作ってしまった。

土木行政というべき、地方に公共投資で金と雇用をばらまく、あのシステムである。このシステムは国と地方の財政制度を硬直化させる罪、地方社会の創意工夫を停滞させる知的な罪、それと共に地方の自然を土木事業によって無慮に破壊する罪がある。しかし、今の日本はこの麻薬のような制度から、逃れることができていない。田中角栄から始まる経済システムからの脱却は、人民にとってひりつくように痛いからである。

今回は伊達政宗のことから始まって、戦後日本社会のことまで、思いもかけず飛躍してしまった。

(小田 光男)