2013年5月20日(月)、京都烏丸御池の「Samurai Cafe & Bar SHISHIN(士心)」にて、第十回字天ナイトを開催いたしました。
当日のライブの、活動報告です。
第十回目の字天ナイトもまた書家の八木翠月先生にご臨席いただき、小田の「新ことば」を即興で書にしたためていただきました。
本日に「新ことば」を贈らせていただいたのは、田中啓介さん。
田中啓介さんは、学生時代一大転機があり、現在就職してからは、悩む若者たちの話を聞いてあげて励ますことを無償で率先して行っておられると伺いました。自分の中は、今火のように燃えている、と。田中啓介さんのお持ちになっている心、それは、惻隠(そくいん)の情というものです。人が困窮していたら、座視しておれず助けの手を伸ばす情。儒学をはじめ、東西の倫理の根本にある尊い人間性です。
私は、そのような田中啓介さんの悩める人々への惻隠(そくいん)の情に対して、儒学の開祖である孔子の上の言葉を使って「新ことば」を創出しようと思いました。
爲騂(いせい/せいたれ)。
そのこころは、「騂(せい、赤い牛のこと)となりたまえ」です。
中国の古典『論語』から、字を採用しました。
―子、仲弓を謂いて曰(のたま)わく、「犂牛(りぎゅう)の子、騂(せい)にして且つ角あらば、用うること勿(な)からんと欲すと雖(いえど)も、山川其れ舎(す)てんや。」(雍也篇)
(大意)
孔子が、弟子の一人である冉雍仲弓(ぜんようちゅうきゅう)のことについて、言われた。
「田畑で犂(すき)を引かせる毛並みの悪い役牛が産んだ子牛であったとしても、もし赤毛で立派な角を持っていたとしたら、たとえこれを用いないでおこうと望んだとしても、山川の神々がこれを放っておこうか?いや、放っておくまい。きっと、国が山川の神々を祭る神聖な祭儀のために、捧げものの聖牛に選ばれることであろう。」
孔子は、教育者でした。
当時の水準を大きく越えた知識を努力して獲得し、その知識によって抜擢されて政治を行い、しかし理想が過ぎてうまくいかず、中国各地を回って自分の理想を国々の君主たちに説いて回ったが、結局時代に容れられることはありませんでした。だから、政治の世界では敗北者でした。しかしながら、彼は生涯を通じて多くの弟子を育てました。その弟子たちはやがてあるいは政治家として活躍し、あるいは学者として孔子の開いた学問をさらに深める業績を残しました。孔子を教育者として見るならば、歴史上まれに見る成功者であったと言えます。
この『論語』の言葉は、孔子が弟子の一人である冉雍仲弓(ぜんようちゅうきゅう)のことを、高く評価した言葉です。おそらく、誰かと彼について会話した内容でしょう。
冉雍仲弓は低い身分の出身で、その父親は素行が悪く悪評があったようです。
しかし、冉雍仲弓じしんは徳行に優れた人という評価があり、孔子の十大弟子の一人に数えられています。
思うに誰かが冉雍仲弓のことを、家柄が悪いから出世もしないだろう、と批評したのでしょう。それに対して、孔子は上の言葉をもって、そうではなかろう、と言ったのでしょう。それで、彼のことを犂牛(りぎゅう。犂を引かせる役牛という解釈と、まだら色の価値の低い牛という解釈があります)から産まれた騂(せい。赤毛の牛。価値が高いとみなされた)にしてかつ角の立派な牛に、なぞらえたのでした。本人がそのような牛であるならば、山川の神々が祭りで捧げられることを、望まずにはいられないであろう、と。
孔子は弟子たちを産まれや育ちで判断したりせずに、その人が持っている資質で評価する人でした。孔子の弟子には、外交に優れた人、徳行に優れた人、勇気に優れた人、文章に優れた人など、様々な才能の人々が身分の上下や出身国を越えて集まっていました。
「爲騂」は、音読みすれば「いせい」、読み下せば「せいたれ」と読みます。
冉雍仲弓(ぜんようちゅうきゅう)について言った孔子の言葉のように、出自などではなくその人の価値によって、よき人となりたまえ。そうすれば、山川の神々は、あなたを放っておかないことであろう。
田中啓介さんが、悩める若者たちと語り合っているとき、きっとそう言って励ましているのであろう。そのような情景をイメージして、この「新ことば」を考えました。古典からの言葉は、由緒正しいものです。そして上の解説のように、意義深い内容が込められています。何かのついでに、上のエピソードと共にこの「新ことば」を話題に出してください。
「爲騂」には、その奥にもう一つの含意を込めたつもりです。
赤い牛は、山川の神々の祭りに捧げられる、生贄(いけにえ)の聖牛です。
価値ある人は、ただ己のためだけで生を終えるべきではありません。世のために捧げられてこそ、その人の価値は光り輝くはずだ、と私は思っています。田中啓介さんじたいが、人のために惻隠の情をもって動いておられます。今は悩める人々も、何でもいいから世のために生きる道を見出すことによって自分の価値を見出すことが、たぶん悩みから脱出できる道なのではないだろうか。私は、そう思うのです。
聖牛は山川の神々に捧げられるから、聖牛なのである。このことを、「騂(せい、赤い牛のこと)となりたまえ」という「新ことば」の背後に、含ませたつもりです。
「新ことば」Live字天ナイト at Samurai Cafe & Bar SHISHINは、来月も開催する予定です。
またとない体験を、皆さんもどうかお試しください。初見の方、大歓迎です!
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