塩竃市の市街地に、道は向かっていった。 Read more
東北旅行記 その五(2012/5/9)
今日は、足の力が続くところまで歩くことにしたい。
私は、国内旅行でも国外旅行でも、訪れたところを歩き尽くすことに最低1日は費やすことにしている。
香港では、香港島の山道に分け入って、イギリス時代に掘られた貯水池のほとりを訪れた。香港という不毛の岩地の上に建てられた植民都市が、水というインフラからイギリスによってゼロから造営された都市であることを知り、東洋の辺境にすら無から大都市を築き上げたかつての大英帝国のダイナミズムに、目を開かされる思いがした。
台北では、かつての中心街であった大稻埕(だいとうてい)と、郊外の士林(しりん)を歩いた。大稻埕にある孔子廟は、日本統治時代に隣接する福建省から職人を呼んで建設された。現在でも、当時の100年近く前に大陸で作られた椅子が、観光客のために座席として使われていた。私は、座った椅子が年代ものであることについて、それが何も特別な家具でもないかのようにガイドの女性から軽い調子で聞かされて、不覚にも笑ってしまった。これが日本の寺院であったならば、ガイドがもったいぶって重々しく説明したことであろう。(この女性との出会いは、私の台湾旅行で最も印象に残った。彼女が語ってくれた自らの経歴は、台湾の歴史そして華僑となった漢族の歴史そのままであった。)
韓国の釜山では、繁華街のチャガルチから橋を渡って、沖に突き出た島の影島(ヨンド)の先端まで歩いた。影島はかつては絶影島(チョリョンド)と呼ばれて、日本の対馬から眺めたときに真っ先に見える、南に突き出た島である。在日の半島人たちにとって、この島影は望郷の幻であると、私は司馬遼太郎先生の紀行文で読んでいた。しかしながら、私が2009年に歩いた「絶影島」は、早春の光にあふれた、緑が多く海が青い快適な都市近郊の楽園であった。釣りを楽しむ人がいた。島の周囲には綺麗な遊歩道が作られていて(韓国人は歩くのがレジャーとして大好きな国民で、遊歩道はどこでも大変に立派に作られている)、私はそこを島の先端の太宗台(テジョンデ)まで歩いた。私が歩いた韓国の道の印象は、明るさに満ちている。韓国は司馬先生の時代から変わったことを、私は歩きながら感じ取ったものだ。
というわけで、この東北旅行では仙台の沿岸から、北を目指して歩いている。
もっと沿岸部を歩こうかと初めは考えていたが、道路がどこまで地図のとおりにつながっているのか目測では分からず、また工事の邪魔となってもよくないと思ったので、次第に海から離れていく県道に沿って、歩いていった。七北田(ななきた)川を渡った辺りまで来れば、津波の被害は見た目には感じられない。
キリンビール工場の脇を通り、仙台港の施設を遠巻きに眺めながら、仙台市から多賀城市に入った。多賀城は歩くルートから少々外れているので、今日は行くことを断念した。司馬先生の『街道をゆく』では訪れていて、藤原朝獦(ふじわらのあさかり)の建立であると伝えられる、「多賀城碑」について書かれている。伝が本当ならば、奈良時代の碑であるということになるが、疑問も多い。この碑については、『街道をゆく』の説明で十分であろう。
道の両脇に、ショッピングセンターが現れた。
近年、この様式の建物が全国で急速に増えている。
広大な敷地に各種の店舗を全て揃えて、買い物から食事に映画鑑賞まで、ここに来れば一日中一通りの娯楽が楽しめるように設計されている。巨大なショッピングセンターの周囲は各種のレストランや付属的な買い物店が集められて、完全な一商店街である。
もし、江戸時代の旅行家がここを通りがかったならば、何と記録するだろうか。高山彦九郎でも吉田松陰でもきっと、
-街道は商賈(しょうこ)の大廛(だいてん)、軒を並ぶ。殷賑(いんしん)たり。
などと書いたに違いない。今や、人が買い物をしに訪れるべき場所は、このような大資本が用意した商店街に取って代わられようとしている。
伝統的な商店街では、たちうちができない。大資本だからできる的確で品切れのない品揃え、正確で年中無休の営業時間、社員教育された人当たりのより顧客対応、当たり外れのない安心できるサービス。どれを取っても、おじちゃんおばちゃんの個人商店の集まりである駅前の商店街では、用意することなどできそうにない。経済の論理から言えば、昭和時代の商店街は日本から消滅していく運命にあるのだろう。
この多賀城市の道沿いにあるショッピングセンターは、奈良の大和郡山市の道沿いにある風景と、全く同じである。、四国の松山市郊外の道沿いを訪れたときにも、同様の風景を見た。今や、全国おしなべて、このとおりの風景が広がっていると思われる。
これは、風景の砂漠化とでも、言うべきなのであろうか。
多賀城市を、通り過ぎた。
(小田 光男)
東北旅行記 その四 (2012/5/9)
学生を降ろすと、バスにはもうほとんど乗客がいない。
今日は、仙台市の海岸部から北上して、北の塩竃・松島まで歩けるだけ歩こうと、旅行する前から企画していた。幸いにも雨の心配もなかったので、私はバスの行き着くところまで、今乗っている。
手元の記録によると、午前8時33分に笹新田のバス停で、下車した。
この系統のバスは、現在のところここまでしか通っていない。それから先は、大地震以降に運行を休止させたままである。
海の方向に向けて、歩いた。
この辺から先は海岸まで、集落の間に田が広がっている。仙台市の中心からそれほど離れてはいない郊外であるが、全くの農村地帯である。
東北旅行記 その三(2012/5/9)
朝のバスは、ほぼ9割が制服姿の学生たちだった。
バスは駅前から南に向かっていった。
ビルの立ち並ぶ通りの向こうに、緑の丘が見える。
伊達家代々の墓所がある、大年寺山であろう。新緑の色が、朝の忙しい空気を洗うようにすがすがしい。 Read more
東北旅行記 その二(2012/5/9)
昨日の晩は、ホテルに入ったまま何もせず。
国内旅行では、一人で夜に飲んだり食べたりしに行こうという気が起こらない。
この日曜日に東京に入ってから、ここまでかなりのハードスケジュールで来たので、体を休めることにした。次の日は、大いに歩かなければならない。
朝7時半、ホテルが出したスーパーで1袋98円で買って来たようなロールパンに、ゆで卵が付いた大ざっぱな朝食を食べてから、仙台駅に向かう。
西口バスループの6番から、400系統のバスに乗った。 Read more
東北旅行記 その一(2012/5/8)
次の日の昼、代々木駅のバスターミナルから、仙台に向かった。 Read more
東北旅行記 まだ行かずの記(2012/5/7)
5月7日の夜は、東京にいた。
京都から同行した住田君、東京で合流した浦君と扇塚君の四名であった。
場所は、西新宿、駅のそば。
公式には「思い出横丁」という、聞けば頭痛がしてくるような名称の飲み屋街が、新宿駅の西側に取れ残ったカサブタのように、へばり付いている。
「どこで飲むかね?」
「アー、『ションベン横丁』行くか?」 Read more
東北旅行記 序
出不精な、私である。
ここ数年、社会保険労務士の住田君の手伝いをして何とか糊口をしのいでいるが、1960年代末生まれで40歳を過ぎた年になっても、金もなければ名もない。
-四十五十にして聞こゆることなきは、斯(こ)れ亦(また)畏るるに足らざるのみ。
(論語、子罕篇)
この孔子の言葉が、ひそかにチクリと心に痛い。
ものぐさで出不精だから金も名も無い私であるが、時々思い出したように旅行をしてきた。心の中の動きが澱んでしまった、と感じたときが、旅行を試みるときだと思っている。
そういうわけで、ここ数年は東アジア諸国を周遊した。香港、台湾、韓国(二回)と足を運んでみた。
今年(2012年)の春、私はまたも気鬱になってしまい、こんな時には心と体に無理にでも揺さぶりを掛けるべきだ、と感じた。旅行のやり時だ、と思い立った。
どこに行こうか、と思案したとき、次は日本を選ぼうと思った。
海外ではいまポーランドに興味があるのだが、ここに赴くのは少々大変だ。日本から文化的にうんと遠い国なので、下調べをするために十分な気構えが要る。私は、旅行先の土地の文化に、自分の力で出来る範囲の限り、共感したい。ポーランドに行くためには、私として十分な心中の高揚を持って、持てる知識欲を事前に総動員させてから赴きたい。ところが、今年の春時点の私には、そこまでの高揚がなかった。しかたがない、今年はあきらめよう。 Read more
起業応援フェスティバル in Kobe(17)「禮火」
2012年4月15日(日)、YouATスタッフの小田と住田の両名は神戸で開催された「起業応援フェスティバル」に出店しました。
YouATの新事業である「字天」漢字デザインサービスがテーマでした。
コピーライターの小田が、会場におられた17名の起業家の方々にその場で「新ことば」を考案・贈呈いたしました。
以下に、当日考案した「新ことば」を簡略に紹介申し上げます。
最後の一つとなりました。
「禮火」は、柏菱商事株式会社 坂元ますみさんへ。
坂元さんは会社の3代目であり、今は代々続く会社で活動していらっしゃるということです。
持てる営業ノウハウによって、営業研修・営業コンサルを展開なさっておられます。
ご自分にいちばん近いものとして、「火」を選ばれました。
その理由はと聞けば、「短期決戦の性分です」と答えられました。
まさに、筋金の通った営業系といったバイタリティを感じました。
そのような坂元さんの気を感じて、「新ことば」を創案いたしました。
「禮火(れいか)」。
営業というのは、ひっきょう礼に始まり礼に終わるものではないでしょうか。
「礼(禮)」というのは、儒教によれば人間の心の根本にある四つの善なる徳目の一つです。
-仁、義、礼、知。
仁は、相手を思いやる心。義は、不正に怒る心。礼は、自ら一歩譲る心。知は、対象をよく知る心。
人間にとっていずれも大事な徳目ですが、儒教はとりわけ礼を取り上げたところに特徴があります。
思いやりも正義も知恵も、もとより大事です。
その上に、儒教は相手を尊重して自ら一歩譲り、相手と円満な関係を取ることが、人が生きていくことで必須であると考えているのです。
すばらしい知恵では、ありませんか。
そのような「礼」の徳目を心に持ちながら、火のようなエネルギーで活動をしておられる。
それが、坂元さんであろうと、私は感じました。
それで、「禮火」という言葉を創案しました。
-辞譲の心は、禮の端(はじめ)なり。皆拡(おしひろ)めてこれを充たせば、火の始めて然(も)え、泉の始めて達するがごとくならん。(孟子)
人間の心の中の礼(禮)を充実させれば、火が始めて燃えたように際限なく広がっていくものだ。なぜならば、礼という善には際限がないからだ。
この燃え広がる礼のイメージを込めて、「新ことば」を贈らせていただきました。
(おわり)
「字天」漢字デザインサービスページはこちら:
http://www.jiten.biz
起業応援フェスティバル in Kobe(16)「鵬笑」
2012年4月15日(日)、YouATスタッフの小田と住田の両名は神戸で開催された「起業応援フェスティバル」に出店しました。
YouATの新事業である「字天」漢字デザインサービスがテーマでした。
コピーライターの小田が、会場におられた17名の起業家の方々にその場で「新ことば」を考案・贈呈いたしました。
以下に、当日考案した「新ことば」を簡略に紹介申し上げます。
あと残り二つです。
「鵬笑」は、NICe代表理事 増田紀彦さんへ。
増田さんは、NICe会員であるならば、すでに知らぬ人はいないでしょう。
全国どこにでも会合があるならば現れて、NICeの活気の源でいらっしゃいます。
「現在あなたが拠点としている土地は?」という問いには、「全国」。
「あなたが現在住んでみたい土地は?」という問いには、「天空」。
この回答を、即座にお答えなすった。
いやはや、恐れ入りました。
というわけで、私は増田さんへの「新ことば」を創案いたしました。
「鵬笑(ほうしょう)」。
出典は、『荘子』です。
-鵬の南冥に徒(うつ)るや、水の撃すること三千里。乃今(いま)や将(まさ)に南を図(はか)らんとす。
伝説の鳥である鵬は、背の大きさは何千里あるかを知らず。飛べばその翼は垂天(すいてん)の雲のごとし、と言います。
荘子は、大空に巻き起こる大風は、鵬の羽ばたきによって起こるのではないか。海に逆巻く波は、鵬の羽が水を撃つ姿なのではないか、と想像しました。
通常の常識を超えるほどに巨大な鵬が、夏に南を目指す。それが、台風なのではないか。
この雄大な鵬が南を目指すイメージは、地上の狭い世界を笑い飛ばしてしまいます。ここから故事成語として「図南(となん、大きく発展すること)」という語が生まれました。
増田さんには、伝説の巨鳥が笑いながら飛んでいくイメージが、ふさわしかろうか。
それで、「鵬笑」を創案いたしました。
(つづく)
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