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ここから、藤橋經雄さんの解説を交えることにしよう。

藤橋さんは、この日私が塩竃神社で会って、いろいろとこの神社についてご解説いただいた方である。ご本人に了承を得ているので、お名前とご説明の内容を、このブログに記す。

神社の正面の石階段の両脇には、人々が寄進した石灯籠が立ち並んでいる。藤橋さんは、この日それらの拓本を取るための作業をしておられた。いただいた名刺には、「塩竃学問所 いしぶみ愛好会」とあった。

私は、階段の一番上にある石灯籠に掘られた年代を読もうと試みていた。

世話人阿部屋勘助

明和庚寅七年 七月十日

「明和七年(1770)だから、江戸時代後期のものですね。だいたいここの石灯籠は、江戸時代後期のものでしょうか?」

「うん。嘉永四年(1851)の奉納物が、いちばん多い。」

藤橋さんから、石灯籠に刻まれた碑文を書き起こした一覧を、いただいた。嘉永年間が最も多く、他に文化年間(19世紀初頭)のものが目立つ。他に文政、明和、安政の各年間のものもあるようだ。いずれも、江戸時代後期から幕末の時代である。残りは、明治時代のものである。

「こういった多く寄進された時代には、何があったのでしょうか?」

「景気がよかったのさ。仙台の商家の寄進が一番多い。ときどき上方など他の土地から寄進されたものもある。」

藤橋さんは現在塩竃市に住んでおられるが、家のルーツは仙台にあるという。神社の鳥居下には、黒色の大振りな石灯籠が置かれている。その上の部分は後世の追加であるが、基壇部分は江戸時代の遺跡であって、どうやら藤橋さんの祖先に当る商家が建てたものであるということである。

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この神社の階段を登った先の境内には、大坂升屋の番頭であり町学者であった山片蟠桃(やまがたばんとう、1748-1821)が寄進した石灯籠がある。山片の升屋は仙台藩の財政と深い関わりがあったので、この仙台藩随一のにぎわいを見せる神社に、家のために寄進したものであろう。このように上方から寄進された石灯籠も、時に混じっているようである。藤橋さんからいただいた表を見ると、一関や牡鹿郡などの仙台藩領、それに信州松本、出羽山形、下野足利、江戸など全国から寄進されている。

嘉永年間の石灯籠が最も多いのは、好景気だったからだけが理由なのであろうか。

この時代はペリー来航の直前の時期であって、すでに人心は不穏の兆しを見せていた。15年ほど前に起こった大塩平八郎の乱(1837)は幕府への公然とした挑戦であり、全国に衝撃を与えた。天理教・黒住教・金光教の幕末三大新興宗教は、文化年間以降の幕末時代に拡大している。このような不安の時代に、仙台の町民もまた土地の神仏への信仰を深めたことは、人々の心として私はよく理解できる。

(小田 光男)