DSCN0173

境内で、塩竃桜が満開であった。

塩竃桜はこのように八重桜なので遅咲きで、5月初旬に満開であった。看板にもあるように、なにせ天然記念物である。きれいな花に天然記念物の看板は野暮に見える、という愚痴はまあ置いておこう。ただ個人的好みをこっそりと言うと、私は八重桜の厚ぼったい花は、あまり好きでない。

DSCN0179

一枚の、石碑があった。読んでみた。以下の文は、私が読み下した。

蝋梅、一名は蘭梅。正保中、清人(しんじん)の齎(もたら)す所なり。林子平先生は長崎に遊び、一見してこれを奇とす。携えて帰り、これを藤塚知命に贈る。知命は、これを金華亭に植える。知命の歿後(ぼつご)、この地に移ると云う。先生、経綸(けいりん)の大志を抱き、而(しこう)して微物(びぶつ)に寓意す。胸中綽綽にして余裕有りと謂うべし、、、

裏の碑銘を見ると、明治三十三年、鈴木省三撰書とある。

文中に書かれているのは、林子平のことである。以下はWikipediaから引用。

林 子平(はやし しへい、元文3年6月21日(1738年8月6日) – 寛政5年6月21日(1793年7月28日))は、江戸時代後期の経世論家。

高山彦九郎・蒲生君平と共に、「寛政の三奇人」の一人。名は友直。のちに六無齋主人と号した。

仙台藩士である。江戸時代中期の知の巨人というべき工藤平助(1734-1801)と交わり、工藤の影響を受けて日本の国防論を論じた。その代表作が、「三国通覧御説」「海国兵談」であった。北海道から長崎まで、日本中を旅した。彼の国防論は世に受け入れられるどころか鎖国中の幕府ににらまれ、両著作は発禁、出版する版木まで没収された。晩年は「親も無し 妻無し子無し版木無し 金も無けれど死にたくも無し」という落魄の境遇で、「六無齋」などと称した。

こんなふうに数行で略歴を書いてしまったら、まことに味気がない。この六無齋先生が生きた西暦で言えば18世紀末に当る寛政時代は、幕末から半世紀前である。西洋ではフランス革命が起こっていたが、日本はまだまだ泰平の世であった。伊能忠敬が全国地図を作る企画を始めたのは、寛政十二年のことであった。同じ時代、司馬遼太郎先生の『菜の花の沖』で有名な高田屋嘉兵衛は、蝦夷地で北前船(きたまえぶね)を操って北海を駆け巡り、エトロフ島にまで拠点を伸ばしていた。

Wikipediaで「寛政の三奇人」と呼ばれている他の二人は、つまり高山彦九郎(たかやまげんくろう、1747-1793)と蒲生君平(がもうくんぺい、1768-1813)である。

彼らと林子平との共通点としては、全国を大いに旅行したことがあるだろう。高山彦九郎は、京都三条駅前に皇居を拝んでひざまずいている銅像がある。彼は全国を旅行して同時代に会うべき人物を尋ねて訪問し、司馬遼太郎先生の表現を借りれば、「なにごともしなかった」。

蒲生君平は、後世の学問に残すべき成果だけはあった。彼は当時に伝えられる天皇陵を巡って、その状態を調べ上げた。言うまでもなく天皇陵は王朝の地である近畿地方に主に点在したが、配流(はいる)先で亡くなった崇徳天皇(すとくてんのう)や順徳天皇(じゅんとくてんのう)、後鳥羽天皇(ごとばてんのう)の陵墓がある僻遠の讃岐国、佐渡国、隠岐国にまで赴いた。その研究成果が、「山陵志」である。前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)という陵墓の名称は、彼の用語から始まっている。

この国に生きた人々の知的好奇心は、鎖国ごときで消えてはいなかった。彼らの業績について、今の私が一つだけ言うとすれば、そのことだ。

ここにある蝋梅の碑は、書かれているとおり林子平が藤塚知明(1738-1800)に贈り、彼の金華亭に植えられていたものが、死後この場所に移植されたものであるという。

境内の他のところに、「藤塚知明旧宅の跡」という看板があった。ここが、碑に言う金華亭だったのであろうか。

看板の表記するところによると、藤塚は塩竃神社の禰宜(ねぎ)つまり神職であり、書かれた説明を借りれば「学問に秀で、古碑や古歌神道に関する著述を著すと共に、多くの書を集め」た。林子平のみならず、高山彦九郎、蒲生君平の「寛政の三奇人」が揃って藤塚と交友してこの塩竃の地を訪れたという。

蝋梅は、今でも木がある。

あいにく季節外れで、花はなかった。蝋梅は、他の梅よりも先に咲く。まだ寒い冬のさ中に、名前のとおり蝋細工のような透き通った黄色の花を付ける。京都の北野天満宮は梅の名所であるが、ここにも蝋梅がある。冬の寒い季節の天満宮の庭でいち早く咲く蝋梅は、早春に咲いて人に春を告げる白梅・紅梅の華やぎとは違った、寒中にひとり立つ孤客の趣がある。

蝋梅は、碑の説明にもあるように、江戸時代になって中国の清朝から輸入された。日本にとっては、新しい品種であった。蝋細工のような花は、じつに大陸好みというか、ハイカラな趣がある。私は、この花がかなり好きである。

六無齋先生・林子平と私の花の好みが同じであることを発見して、花は咲いていないけれども、ほんのりと嬉しくなってしまった。

(小田 光男)