日差しが、足元を照らし始めた。

やがて、頭上はかっと暑くなるほどに、照り付けた。

山を隠している雲を見れば、その風上の方角では、すでに雲は消えていた。

あと少しすれば、見えるだろう、、、

もう少し、、、

まだかよ。

私の頭の中では、「タブー」の音楽が鳴り始めた。昔の人ならば知っている、ドリフの加藤茶のギャグ「チョットダケヨ、アンタモ好キネ」のシーンでの音楽。風流でも、なんでもない。

 

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というわけで、見事な岩木山の全貌を、この日幸いにも城の本丸から見ることができた。

待ち続けた末に見ることができた今日は、初めから晴れていたより、感慨もひとしおであった。

 

平成二四年陽暦五月十一日自弘前城眺岩木山

巖山雪嶺辞無用

本日晴天至上時

万朶桜花城下緑

傾觴戯作一篇詩

 

平成二四年陽暦五月十一日、弘前城より岩木山を眺む

巖山 雪嶺 辞(ことば)は無用

本日晴天にして 至上の時

万朶(ばんだ)の桜花 城下の緑

觴(さかずき)を傾けて戯作す 一篇の詩

 

東北旅行最後の日に、この名山を見ることができたのが、一番の出来事であった。

やがて日は傾き、空はすっかり晴れ上がった。

暑さと酒で、頭がぼおっとなった。

酒が尽きたとき、私は岩木山に別れを告げて、城を下りた。

弘前の城下町は、この状態ではとても楽しむことができなかった。

「百石町展示館」の前まで来て、喫茶店に入って休んだ。

私はそこで、はじめて津軽言葉というものを聞いた。店長さんと、常連のおばさんたちがカウンターに集まって会話していた。チラシなどを見ながら話をしていたので、たぶん買い物情報か何かが話題だったのであろう。

だが驚いたことに、彼女たちの会話が、全く分からなかった。

ときどき分からない言葉がある、というレベルではない。

一語一句たりとも、意味が分からなかった。完全に、津軽弁は私にとって外国語であった。

平成時代の日本にして、まだここまで標準語から遠い方言が残っていることに、私は感動してしまった。この言葉で、太宰治などは少年時代に津軽地方の豊富な昔話を聞かされて育ったのであろう。そこから来る言語感覚は、本州の中心部の人々が持ちえないものが、きっとあるのではないか。

本州北辺の城下町は、夕方の陽だまりの中にあった。その喫茶店の一角で女性たちの語る言葉を、私は意味もわからずに長々と嬉しがって聞いていた。Tsugaru is marvelous.

 

- 東北旅行記 完 -

(小田 光男)