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塩竃市の市街地に、道は向かっていった。

地図で見ると、東の方角に貝塚があるという。大木囲貝塚(だいきがこいかいづか)、と命名されている。道から見れば、今は閑静な住宅街になっている丘陵地である。自治体名で言えば七ヶ浜町に当り、七ヶ浜町のホームページによれば歴史資料館まである、縄文時代の住居跡が広々と発掘されている。

海から食料を取った人々にとって、新しい土地に移住したときには、きっとこうした海岸にほど近い丘の上を集落に選んだことであろう。農業を生業(なりわい)とする人々が新天地を求めたとき、耕せる平地に囲まれた丘の上かあるいは周囲を集落の建設地に選ぶことが多いことと、人間の原理としては変わりがない。

なぜ丘の上を選ぶかといえば、それはきっと村を防衛する思想が先に立ったからに違いない。村に近づく怪しい者を一刻も早く察知することは、住民が生き残るために望む本能的な欲望だったであろう。そしていざ敵が襲ってきたときには、住民が全て高みに登って防衛戦を行うことも、覚悟しなければならない。はるかな昔の時代、国家といったものが存在せず、あるいはたとえ存在していたとしても住民をも守ってくれるような殊勝なサービスをしてくれなかった時代には、村の住民たちは自分で自分のテリトリーを守らなければいけなかった。昔の人々にとって、住居を求めるのに大事なポイントは、一つに生活の基盤が近くにあることであり、二つに危機が迫ったときに情報を察知して防衛できる地形にあることであったはずである。こうした縄文時代の貝塚もまたそうであり、また全国各地の集落にある鎮守の森が小高い丘に置かれていることが多いことも、その起源は村を作るときに中心地に丘を求めてここを神聖化したところに求められるのではないだろうか。

こんなことを書いて、私はいったい何を言いたいのかと言えば、人間の生活には「丘」が必要なのではないか、ということである。単に貝を採って、米を植えるだけの生活では、人間の本能として大事な半分が欠けているのではないか。周囲の状況を把握して、危険を察知して対処するための「丘」に常に登ることを行って、初めて人間として本能を十全に伸ばして生きることができるのではないだろうか。もちろん今の時代において、「丘」とは比ゆ的に考えなければならない。国や地域が危ないとか、このままでは滅んでしまうという危機を感じるのは、おそらく本能のなせるわざであろう。私は、そんなときにこそ、「丘」に登って状況をきれいに把握することが必要なのであって、もしそれをしなければ低い土地でわけのわからぬままに溺れ死んでしまうだろう。過去に滅んでしまった集落や、あるいは国ですらも、平地で毎日の生活に泥(なず)むばかりで「丘」に登ることを忘れてしまった結果なのではないだろうか、などと私は想像したりするのである。

塩竃市に近づく道のそばに、丘の上の神社があった。

須賀神社、と地図には書かれている。

道をすこし外れて、階段を社殿に向けて登ってみる。

社殿の脇に、真新しい石碑があって、神社の由来を読むことができた。

恭しくも牛主鎮守須賀神社は累世祠職明性院記によれば後醍醐天皇の元應元年笠神村の者共鬼門守護の神としてこの地に創建するところにして建速須佐之男命を祀る。

碑によれば、本殿、拝殿は戦後に氏子の人々によって造営されたものであるという。現在の市域ではこの神社は塩竃市牛生町にあるが、隣接する地名は多賀城市の笠神である。ゆえに、この地域一体の氏神として、祀られていたのであろう。記録によれば、創建は鎌倉時代末期の元應元年(1319年)だという。後醍醐天皇即位の年であり、元應という元号への改元は、この天皇の即位に応じて行われた。この後、日本の歴史はこの天皇の企画一つから始まって、鎌倉幕府滅亡への大動乱に進んでいった。南北朝時代から室町・戦国時代にかけての宮城県下の歴史は、日本全国の他の地域で同時に起こっていた領主たちの覇権争いと同じものであった。大崎、葛西、留守、国分、石塔、伊達などの各氏が、一時は優勢となりまた次の代には没落しという変転を繰り返した。当時の日本各地の状況を今の時代になって思い浮かべるのは、至難の業である。現在の日本各地の社会と土地の風景は、結局のところほとんどが江戸時代の泰平の世の中で熟成されて形作られたものである。この宮城県下の地もまた、現在の姿に近づいたのは伊達政宗が仙台藩を作り上げた江戸時代以降であるはずだ。

神社の境内から下は、塩竃の港である。塩竃の港は多賀城の行政府と一繋がりで古代には奥州地方の一大中心地であり、仙台よりもずっと歴史が古い。

神社の森を降りて、塩竃の市街地に入った。

(小田 光男)