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「字天(じてん)」。
私たち事務所のための、新ことばです。意味は、「一つ一つの字が、大きな天を含んでいること。字の中に天がひろがる様子」。
「壷中天」(こちゅうてん)という、言葉があります。仙人の持っている小さな壷の中に入ってみれば別天地の仙境が広がっていたという古い中国の説話に由来して、小さな空間の中に思いもよらない豊かな天地が宿されている様子を指し示す、言葉です。(『漢書』方術列伝より)
私たちが皆さんに提供する字は、とてもちっぽけで短い表現です。
しかし、私たちはその中に、皆さんの大きなストーリーと夢と抱負を、豊かな古今の文化と併せて封じ込めてみたい、と常に願っています。
それで、小さな字の中に、大きな別天地を作ろうとする私たちの活動をたとえて、「字天」の二字を選びました。
清代の中国で編纂された『康煕字典』に収録された漢字の数は、四万九千余。
目もくらむような数です。
私たちは、願わくはこの豊かな小宇宙から力を得て、多くの人に東アジアに由来する漢字文化の面白さを味わってほしい、と願うところでございます。
二つの字のデザインは、日本の歴史的先人たちの書から取りました。 「字」は、一休宗純(いっきゅうそうじゅん、1394-1481)の書から一字をいただきました。 一休宗純と言うよりも、「一休さん」と言ったほうが、きっと分かりやすいでしょう。あのとんちの一休さんです。 大人になってからの一休さんは、旅に暮して奇行も多い、風狂な人として大いに名を馳せました。 しかし、詩と書は当世の一流であり、中世日本を代表する文化人の一人です。 私たちは、彼の書である『尊林号偈(そんりんごうげ)』から、一字のデザインを取りました。
余は、雀の子を飼っていてこれをはなはだ愛していたのだが、ある日とつぜん倒れて死んでしまった。悲しむことますますつのり、それで丁重に葬って、人のようにこれを祀った。最初、こいつのことを「雀侍者」(じゃくたいしゃ、雀の従者)と呼んでいたが、後に「雀」を「釋」(しゃく、仏門に入った者が共通して名乗る姓)に変え、また字(あざな)を付けて「尊林」とした。そういうわけで、ここに一偈(いちげ)の詩を作って、亡き者の弔いの証拠としよう、、、
一休さんは、飼っていたスズメが死んで哀しかったから人のように弔い、その上これに「尊林」という立派な名を与え、死に臨んで一偈(いちげ)の詩まで贈ってあげた。
一休さんの生きた室町時代には、寺の坊さんたちは学問が遅れた当時の日本の知識人であった。その坊さんの一休さんから偈(げ)をもらえるなんて、この死んだスズメは時の人間たちですらなかなかやってくれないことを、飼い主の一休さんからやってもらった。さぞかし、成仏することであろう。
飼いスズメの死に対して大層な詩と書を贈るなど、一休さんはまことに巫山戯(ふざ)けている。いや、大真面目なのかもしれない。ともかく、どこまでが本気でどこからが冗談なのか、一休さんの芸術は判然としない。だから一休さんの芸術は面白い。その狭い常識を笑い飛ばして芸術をやってのけるユーモア精神に、私たちもあやかりたい。それで、一字拝借しました。
「天」は、空海(くうかい、774-835)の名筆『風信帖(ふうしんじょう)』から、一字を取りました。
空海は、弘法大師(こうぼうだいし)という呼称のほうが有名でしょう。平安時代初期の高僧で、また日本で一番有名な書家のひとりです。
風信雲書が天より翔びて臨み、これを開いて読めば、雲霧が晴れるような心地です、、、
日本書道史に燦然(さんぜん)と輝く、傑作の出だしです。
この作品は、最澄(さいちょう)に宛てた手紙が、書としてそのまま有名になったものです。
弘法大師の書は、書の基本に忠実でありながら、飛ぶようなリズム感にあふれています。
「天」の字は、中国の書聖王羲之(おうぎし)の書体に倣っています。王羲之の書を数え切れないほど、練習したのでしょう。この手紙を書いたときには、きっと自然に書いたと思います。達人の自然体のスタイルで書かれた、バランス感覚にあふれた字です。その美しさに惚れて、一字拝借しました。
私たちは、この両者の書からそれぞれ一字を取って、私たちの新ことば、「字天」をデザインしました。
以上が、「字天」の意味とデザインの由来です。 私たちは、歴史上の名人たちをはるかに慕い、私たちのかたちとしたいと思います。 私たちは、自分たちの文化を研究し、自分たちの文化からインスピレーションを得て活動します。 私たちの仕事を通じて、多くの人々に東アジア文明の継承者である日本のかたちを届けていきたい。 オーバーに申せば、それが地球の東アジアに生を受けた私たちスタッフの、地球人の知的進化に対する使命だと思うのです。 字天コピーライター 小田光男
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